1953年に、生まれ、1995に、win95がそれまで、圧倒していた、Macを、大逆転するのを、見ていた。だが、翌96年、これを買うべく、秋葉原へ、目的は、internetの体験だった。全然、PCを知らないで、見たinternetは、気象の表画に、10分かかった。
業者が来た、MONITERは、「このほうが良いでしょう。」と、予定の15インチの代わりに、17インチを持ってきた。
これが、J35というモデルで、pentium 133M、雑誌には、memoryは32Mと、これに16Mが、入っていること、HDDを使った、仮想memoryは、速度が落ちて、同じ機能を代替する、とあったので、そうなのか、と思うだけだった。
まだ、WordやExcel も、アプリという言葉も、無い状態で、PCは動いていた。他の機械と同じものだった。
やがて、internetを初めて、今度は添付ファイルのやり取りに。年賀状の裏の絵にはプリントゴッコを使った。これが、シルクスクリーンだと知ったが、これは、実に3年間続いた。翌、1997年、遂に、花子10を購入、その前に、「Teo」を購入、これはエルモの実を食べた。
年賀に、花子を使用は、各、12がつに、代案を作るために使った。まだ、WordもExcelも、無い状態で、作業は進んだ。3D文字、は標準では入らず。
横尾忠則の真似をしてみた。結構うまいと思った。一太郎は8にverUP、これで、Excelが読み込めた。増設を試みるが、これが原因で、crashしたのは、WIN98のオムニブックとの、LAN接続後の、混乱期に、「砂嵐」で、残ったwin98は、仕事をしたが、win95も、電気料金の明細書に使うはめに、引き続き、これが、2件に。とうとう終わったのは、このLavieが、win7で、10年間の終わりになった。
6600voltの高電圧という業界にいるが、PCはそこでも必須だった。今でこそ、こういうものの、難しさを言えるが、「2の補数」は忘れて、アセンブラが消えた。それは電験3のせいでもあった。時間は「光陰矢のごとし」、で、これが機械の司令塔に。残った、日経は、まだある。ゆっくりと過ぎつつも、時間は経過していくが、このタワーは。
track技術は、遂に、非常識な状況に、もうRAの技術だけでは、オーソライズできない状態に。ただ、英語の単語が、記憶されたバンクから出てきそうで、Formula 1 のF・alonsoが、crash したが、たいしたことではないらしい。残った機械は、全部安物だが、S/Nばかりと思う、人間になった。
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