ワルキューレの騎行

 映画作り、TVのドラマも同じだが、本来、「本」は、「評価の高い、既存の作品」を映像化するのであって、確かに、優れた「脚本」を作れる、「脚本家」や「監督」がいるのが当たり前。だが、実際に「台本」は、「舞台の脚本」から、各自に、或いは、「創作者」である、「脚本家」の各俳優ごとの、振り分けでできているわけで、各、仕事についての、熟知から「作品」の持つ、ストーリーを、有り得る「画面」に矛盾なく載せていくものだろう。

 練習を観ればわかる。この位置に、立って、「その場でのセリフ」を、言うわけで、各自のpositionと動き、は、表現の脚本に自然な、台本の、意味を思いながら、行うので、相手の「セリフ」も覚えているわけで、これは「映画」でも同じだろう。

 「版権」があって、無断で使ったり、セリフを変えることは、本当にはできない。そこで、「主役」は、少し、その持つ、キャラクターに応じて、若干変えても良いのだと思う。

 川端、大江、三島、なら「版権」なしでは、絶対に「芝居」はできないが、新人作家のモノについて、「表現の自由」だという、画面に、驚くのだ。

 この場合、「監督」は、「脚色」してしまうのだが、過去の題材においては、現在に置き換える、「脚色」がなされるわけで、タイトロープに名前が出る。時代考証も、同じで、こうした面倒ができないと、漫画が原作の、「実写版」が、ストーリーを無視して、作られていくのだ。

 舞台は、庶民の願望のままに描くべきで、俳優のキャラクターを選ぶ、映画では、「カット」に切り刻むわけで、ここで、役者の意見も出てくる。カメラは、監督の指示を、出来うるだけ、再現するわけで、高度な技量と、ストーリーの本当の意味を掴んでいる必要がある。

 現在の映画は、「フランス」に準じて始まる、フィクションだったが、途中で、「アメリカ」の方法が主流になった。「卒業」から、映画は大変革を遂げるわけで、「カッコウの巣の中で」、のジャックニコルソンが、現れる。new wave は、無名の新人が、排出され、「ダスティン・ホフマン」や「キャサリン・ロス」という名優ができていった。ここには、「サイモントガーハンクル」という、大ミュージシャンが出てきた。若者の哲学が描かれていくわけで、かたや「フランス」は、「男と女」等の、日常の不変性が、凄いわけで、にほんじんは、蒲田に集結し、「邦画」というものを、哲学化していく。

 雑誌は「スクリーン」と「キネマ旬報」に分かれる。

TVからvideoの台頭は、結局、「フィルム」とおんなじに、作られている。


 現在、「スピルバーグ」が代表で、「ルーカス」は、たまにしか、作品を作らない。だったら、邦画に使えばいい。同じくらいの「感性」の持ち主だ。

 明治大の台頭は、「頭が良い」ので、けっして「三谷こうき」さんの、才能だけではない。ここには村上龍もいるが、大江が、「××きどり」だったように、「三谷さん」も、「大人である」だけでなく、作品のある意味での、三谷流の、「異常さ」は、普段の、普通さに通じていく。

 映画は、「演技力」ではなく、台本の、「IQ」なのだ。そして、演じる者は、セリフを、一気に覚えるのだ。

 喜劇でも、シリアスでも、皆、近未来の描写であるわけで、「蒲田行進曲」はまさに、そうだった。

 「人」の持つ、誰でもが共感する、部分は一種の、「怖さ」でもあり、このことが、映画の効果である。

「コンプソン発電」と「SMAP事件」について。

 ここはこうだ、という「監督の指示」は、彼の全型暦を覆さない限り、絶対なのだ。「午後の曳航」はフランスで映画に、だが、あそこには邦画の「作る」作業が無いともいえる。

多分、「雪国」は避けているのだし、日本の監督、プロヂューサーは、余裕の、対応なのだ。でも、ちょっと、たまには、「作品」が見たいと思う。DISC配信は、限度に来ていると思う、デジタル化は、上手くいった、とは言えない。この不安定期に、冒険は、俳優も監督も、脚本家も、作品とは思わないだろう。

 「地獄の黙示録」、フランク・コッポラが最高だ。


shoji's Ownd

ウェットなしなやかさ。あの日の NIKOMAT FTとNIKKOR 50mm F2.0 の画像は、Fシリーズにも匹敵、レンズの解像度、発色のcoolさは、fujiclomeを、普通のフィルムに変えた。 上記タイトルは、PMAシリーズの特徴だが、SX-3も驚き。

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